2023年にやりたいこと
特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと」
あけましておめでとうございます。
2022年は良くも悪くも平穏で、幸せな1年だった。人格のできた彼氏に大事にしてもらったというのが大きい。
そして仕事もそこそこやってきた。初めての業界職種で右も左もわからないことは多かったけど、すごく大変ということもなく、意外となんとかなった。
2023年は、変化とか挑戦の年にしたい。
まずは転職を考えている。理由は色々あるけど、新しいチャレンジがしたいのと、自分のやりたいことと会社の方向性が違うことに気づいたから。
収入も増やしたいので副業の方向性も検討中。今は割安で受けているので、なにが収益化の方法を考えたい。
あとは引越しを考えてて、これはもう今月中に引っ越すか引っ越さないかを決めないといけない。更新月なので。
いまの家は家賃が高いこと以外は完璧なのだが、もう少し家賃を抑えたいので早めにいい物件を探して、あれば引っ越す。見つかる目処が立たなければ引っ越さない。
あとは車を運転できるようになりたいとか、痩せたいとか色々。
まずはペーパードライバー講習の問い合わせをしてみた。運転できれば旅先のレンタカーを運転できるので、まずはそれが目標。
そんなわけでお正月から動き出しを考えてます。
雨の休日
今日は一日中雨だった。
久々に予定のない1日で、朝はいつもよりゆっくり寝て、起きてから副業の仕事をこなした。
お昼ご飯を作って、食べ終えてのんびりしていたら14時過ぎ。
今度は英語と資格の勉強をした。どっちも楽しい。趣味で勉強が楽しめるのは自分のいいところだと思う。
その後は久々にコナンのアニメを見た。最近忙しくて見れてなかったけど、先日過去の映画が上映されてるのを見てまた熱が戻ってきた。
アニメを見ていると、生活が潤っている気がする。
夕飯には、冷凍していた肉を焼いた。焼肉のために買った残りだったけど、私はこれを焼いたことを強く後悔した。
油が多く、食べきれなかった。半分ほど食べて胃もたれを感じてやめた。一昨日から胃の調子も悪いのに、バカなのかもしれない。
一昨日の昼過ぎから胃が痛くなった。空腹時間が長いと胃が痛くなることが多いのだけど、いつも薬を飲んでも治らなくて、寝ると改善することが多い。
その日も早めに寝て、翌朝には治っていたが、会社に着くとまた痛くなった。その日はずっと痛いままで治らず、就業時間にそそくさと帰宅した。
そしたらパソコンの充電器を会社に忘れた。おかげで明日も出社しなくてはならない。
なんとか帰宅し、餃子を食べた。胃が痛いのに餃子?とお思いだろうが、食欲はあるのである。
食べ物を求めている。気持ちも食べたい。でも胃は痛い。
そして満足するまで餃子を食べ(6個)、早めに寝た。この時の私は、もし明日も胃が治らなかったらどうしようかと不安に思い始めていた。
今日起きると、胃痛は幾分か改善されていた。
ただいつも通りではなく、あまりお腹も空かない。ただし食欲はある。
なので食べるけど、食べたら食べたで胃に不調を感じるなんとも言えず不快な1日だった。
コナンを見たあとは友人とオンライン読書会をした。
友人とは週一ペースで読書会をしている。今回の課題図書はカーボンニュートラルについてのものだった。
私の最近の関心はもっぱら環境・エネルギー関連である。
読書会はかしこまったものではなく、雑談を交えて感想を述べ合うようなものだ。
私はこの読書をきっかけに転職の決意を強めたのだった。
読書会を終えるとそそくさと家事と入浴を済ませて、ソファでぼんやりする。1日で一番好きな時間だ。といっても今日はほぼ1日そんな時間だったが。
雨なのを理由に家から一歩も出なかった。天気が良かったら図書館とジムに行こうと思っていた。
何が言いたいかと言うと、胃の調子さえ良ければ最高の1日だった。しばらく予定のない休みがないので、無理せず過ごしたい。
誕生日のこと
数日前に30歳になった。
当日は都民割で彼とホテルを予約していて、3日間たっぷり遊んだ。
でも、1日目の夜に事件が起きた。
旅行に行っていたらしい父から写真が送られれきたので、私は、もうすぐ誕生日だよ、30歳になるよというようなことを返信した。
私にとっては、30歳というのはただの事実で、むしろ30年も生きたんだなぁというどちらかというとポジティブな意味を持たせて言った。
その後に父から送られてきたのは、「おわってるな」「もうすぐおばさんやで」というメッセージだった。
30年生きたことを、当然父も喜んでくれると思っていた。
節目の年だから、いつもより盛大にお祝いされてもいいくらいだと思っていたのだ。
理解ができなくて、しばらく戸惑ったけど、その後は悲しさで涙が溢れてきた。
ホテルの部屋で、ソファに座っているときだった。彼にバレないようにこっそり涙を拭い、「よくそんなことが娘に言えるね。信じられない」と返して、私は止まらない涙を隠すためトイレに向かった。
トイレで鼻をすすってると、彼が慌てて寄ってきて「ねえ、泣いてる?」と声をかけてくれた。せっかくの旅行なのに、私が個人的なことで泣いて雰囲気を悪くするのも避けたいし、理由をうまく説明できる気もせず、「泣いてないよ」と私は答えた。
ちょうど花粉がひどくてくしゃみと鼻水がとまらなかったので、「花粉なの?」と彼は納得し、戻っていった。私はわざとらしく鼻をかみ、平然とした顔で部屋に戻った。
それから大浴場に行って一人になったら、また泣けた。
そして、せっかく楽しい時間を過ごしに来てるのに、最悪な気分でいることが悔しくて、さらに腹が立った。父の言動も、気持ちを切り替えられない自分も。
せっかくの素敵な夜景も、モヤモヤした気持ちで見た。
お風呂に入ると少し落ち着いたが、夜はなかなか寝られなかった。
翌朝、腫れた目をごまかすために慌てて朝風呂に行った。
翌日の夜になる頃には、涙は出なくなっていたが、結局完全には気持ちを切り替えることができず、なんだかネガティブな気分を捨てきれない3日間だった。
誕生日当日には、父からも何度かメッセージが入っていた。旅行の写真や、誕生日を祝う言葉など。あの夜から無視していたので、一言だけ返事をした。
別に悪気はなかったんだと思う。でも、悪気のない一言でも私は傷ついたし、大事な休日を100%楽しめなかった。
昔からうまく喧嘩ができず、無視するくらいしかできなかった。もっと怒ればよかった。傷ついたって、しっかり言えればよかった。でも言えなかった。
ここ数年感じていることだけど、怒れないというのは本当に良くない。
嫌なことをイヤだと言えないことで、自分がどんどん軽んじられていく。悪意がなくても、傷つくようなことを平気で言うひとはいる。
社会人になってからはそういう人とは距離を置くようになったけど、それが身近な人で、これからも関係を続けたいなら、嫌なことは伝えて、関係性をより良く続けるための努力をしなくちゃいけない。
そういう意味でも、30歳は強く、楽しく生きたいと思った。
30歳になる心の準備
もうすぐ30歳になるので、29歳を振り返っておきます。
もう30年も生きてるなんてすごいな。10年前のことも、20年前のことも、ほとんど覚えてない。年々、1年が過ぎるのが早くなるとよく聞くけど、本当にそうだと思う。
29歳は、社会人になって東京に住み始めてから1番穏やかな日々だったと思う。転職も引っ越しもなかった。そして、1番遊んだ1年でもあった。
当然のことながら社会人になって時間が経っているので、人生で見ると今が一番自由になるお金も多い。1年目の頃は、新卒の給与で余裕もない上に家賃も高く、さらに飲み会なども多くて日々カツカツだった。家賃の引き落としが無事できるかさえヒヤヒヤしていたような日々だった。
コロナで飲み会が一気になくなり、私のお金は貯まるようになった。飲み会だけでなく単純に出かけたり遊んだりすることが減ったのもある。
その中で私は、自分の好きなものや好きじゃないものを見極められるようになった。
特に29歳は、「自分ってこういうことが好きなんだなあ」と気づくことが多かった。
たとえば、家で一人でぼんやりする寝る前の時間。21時くらいにお風呂に入って、スキンケアやストレッチを済ませて、22時くらいにはいつでも寝られる状態になっているのが日々の幸せだ。
ソファでのんびりYouTubeを見たり、本を読んだりする。これがなくなるのがイヤなので、あまり夜は出かけなくなった。
もうひとつ好きなのは、自転車でちょっと遠出をすること。アウトドア派ではないので私の自転車は電動だが、気持ちのいい季節は1時間くらいかかる場所まで自転車で行くこともある。
普段電車に乗っていると見れない景色に出会うのが楽しいのだ。
そして、料理も好き。上手なわけでもないが、毎日クラシルでレシピを探し献立を決めて買い出しをする。余ったものはたまにお弁当にする。
大好きな「てりやきチャンネル」のYouTubeを見ると、さらに料理をしたくなる。彼氏が家に来ると一緒にご飯を作る。雨や台風でヒマで仕方ないときは、パンやドーナツなどちょっと手のかかるものを作ってみたり。
こんな感じで、29歳は好きなものとそうでないものを精査してきた気がする。毎日のちょっとした楽しみを感じられるようになった。
そして、人生で1番旅行に行った1年だった。
もともと私は、旅行は好きだけどそんなに頻繁に行くタイプでもなかった。旅行好きの友達もそんなにいないし、年に1〜2回程度行けばいいほう。
そんな私が、29歳のあいだに10回ほど旅行をした。これは紛れもなく、旅好きの彼氏の影響だ。いつも、「次はどこへ行こうか?」と帰り道に彼は言う。
その瞬間が、私は旅行のなかで一番好きなのだった。
一方で、30歳という年齢は、私に色々と考えさせた。
一番悩んだのは、子どもをもちたいかどうかということだったと思う。ずっと、周りの出産を見ても、自分は子どもは欲しくないし、と思ってきた。
でも、不妊治療や、高齢出産のリスクなどが現実味を帯び始めて、頭を悩ませた。今、「子どもは欲しくない」と思って過ごしている日々が、数年後に後悔にならないだろうか。欲しいと思ったときに手遅れだったらどうしよう。
私は友達とも話したし、妊娠や母になることについての本を読み、ネットの記事も読んだ。でもやっぱり、今(の段階では)子どもを産みたいとは思わなかった。
これはまだ数年は付き纏う問題だ。後悔しないように真剣に向き合わないといけない。
そういう葛藤はあったものの、総じて29歳は楽しく、穏やかな日々だった。
30歳は、引っ越しと転職を思い立ったので、またまた慌ただしい日々を楽しんでいけたらなぁと思う。
人生のつらい日々は、推しと乗り越えてきた
少し前に書いた記事がおすすめに載っていたようで、たくさん星をもらってて驚きました。
しばらく更新してなかったこのブログを最近ちょこちょこ更新してるのは、やっぱり何か書かないと思考が深まらないからです。たまには色々書いて考えようと。
私の20代前半までは、長らく推しがいる人生でした。
中学生の頃はアニメにハマり、高校生の頃はビジュアル系バンドにハマり、大学生の頃はK-POPにハマっていた。
先日久々に、大好きだったBIGBANGの曲をYouTubeで流すと、蘇ってきたのは実習に行っている頃の記憶だった。
当時薬学部5年生だった私は、薬局・病院に2.5ヶ月ずつ実習に行くことになっていた。薬剤師になりたくない私にとってはこれは苦痛でしかなく、毎日重い足取りで実習先に向かっていた。
薬局・病院ではそれぞれつらいポイントは異なっていて、薬局ではとにかく仕事が単調なこと(実際の薬剤師はそうでもないかもしれないが、実習生ができる範囲のことは少ないのだ)。そして隣の消化器内科の門前薬局だったため、お昼の12時を過ぎて午後診が始まるまではとてつもなく暇で、耐え難く眠かった。
このときは立っていても寝そうなくらいで、自分の健康状態を心配するほどだった。
病院でつらかったことは、毎日の日報と、同じ時期に実習に来ている同期たちが定刻を過ぎても帰宅せず居残りで勉強をしていているなか一人だけ颯爽と帰ることだった。
日報は学んだことを書くのだが、まさにブログのような感じで図解などもできず、ただただ文字を連ねるだけで、とても役に立っているとは思えなかった。しかし簡素に済ませると大学の教授から真剣に取り組みなさいとお達しが来るのだった。
そして勉強熱心な動機を横目に、18時半からの塾のバイトにひとり向かう私。いたたまれない気持ちを押し殺して、働いて貯めたお金でミラーレスカメラを買った。
そこまでつらい原因は、根本的に興味がないことである。そのうえ、服装や身だしなみなどの規律が厳しいので、苦痛でしかなかった。
私は毎朝BIGBANGのミュージックビデオを流しながら身支度し、曲を聞きながら実習先へ向かった。休みの日はライブにも赴いた。
BIGBANGを聴くと、あのときのことを思い出す。私を支えてくれたのは間違いなく彼らであった。
また、中学時代に私はいじめられたことがあり、限られた数人しか友達がいなかった。学校も嫌いで、辞めたかった。中高大まで一貫だったが、進学のたびに外部へ出ることを試みたが、ことごとく親に阻まれた。
公立の高校に行きたいと言っては「治安がよくないからダメ」と言われ、大学に行かずに専門学校に行きたいと言ったら「大学だけはどうしても出て欲しいから、専門学校に行きたいなら卒業してから行きなさい」と説得された。
いじめの真っ只中の中学2年生のときは、学校に向かう電車の中で吐き気を感じることが多かった。そんなときはBLEACHか銀魂のコミックスを持参し、読んで気分を紛らわせていた。あれがなければ登校できなかっただろう。
(いじめと言っても仲間はずれにされたり、私に対してだけ言葉遣いがきついとかその程度)
高校に入ってからは特別いじめられもしなかったが、理系クラスになったので仲良しの友達がクラスにひとりもおらず、常にぽつんと過ごしていた。
そんな私の癒やしはMUCCだった。当時の生きがいでさえ会った。お小遣いやお年玉を貯めて、音源やライブに費やした。MUCCが「生きる価値もないような世界を愛してる」と謳うから、私も世界を愛そうかと思えた。
こうして振り返ると、つらいときはいつも推しがいてくれた。推しは素晴らしい存在だ。
つらい日々を乗り越えるための原動力になる。
大学1〜3年生のときや、社会人になってからは忙しく、それなりに楽しく日々を送れてきたため、どっぷりとなにかにハマることはなかった。
それに、ハマることが怖くなってしまった。
周りのファンを見て、推しに対する愛の深さを比べてしまうのだ。私はそこまで真剣になれない、それって本当に愛なのか?と。
また、推しの一言や言動はもちろん、スキャンダルや脱退など様々な外部要因に気持ちが振り回されることにも疲れてしまった。推しが亡くなったこともあるし、解散もしたし、脱退もあった。
コントロールできない事象に心が浮き沈みすることがつらくなってしまったのだった。
とはいえ、今までのつらい日々はずっと推しとともに生きてきた。かけがえのない存在だった。
今は推しがいなくても生きていけるくらい穏やかな日々だけど、推しと過ごした日々も愛おしく、懐かしく思う。
男女の友情の、超えられない壁
私には仲良しの男性の友達が2人いる。いつも3人で会う。
新卒で入った会社の同期で、私が入社後1年3ヶ月ほどで退職したあとによく遊ぶようになった。
最初は友人宅でお酒を飲みながらアイドル番組を見ていた。誰かの家で集まってアニメを見たり、ご飯を食べに行ったり、アクティビティにも色々取り組んだ。
今では月に1回は会って出かける。年に1〜2回は旅行にも行く。
私の地元に遊びに来て、両親に会ったこともある。
今はもうみんな違う職場にいるが、グループLINEでも頻繁にやりとりをする。社会人になってからできた、かけがえのない友人だ。
私は男女の友情は成立すると思っている。性別より前に、友情があるのだ。
でも、一緒に過ごしている中で、どうしても性別を意識せざるを得ない瞬間がある。それは例えば更衣室だし、旅館での着替えや大浴場だし、遊びの途中で寄る銭湯だ。
旅行にでかけて一緒の部屋に泊まるのも、家を行き来するのも違和感はないけど、さすがに同じ場所で着替えはできないし銭湯でも別々になる。
私以外の二人はサウナ好きで、よく私抜きでもサウナに行ったりしているが、私はそこに混ざることができない。
性別なんて関係なく仲良く、一緒にいたいのに、私達の間にはいわゆる性別という超えられない隔たりがあるのだ。
別に一緒に共有できないものがあってもいい。一緒に風呂に入りたいとかそういうわけじゃない。
でも、過ごす時間が性別によって断絶されることで、友情と性別は両立できないような、途方も無い気持ちになってしまうのだ。
世の中には、男女の友情は成り立たないと主張する人もいる。恋人がいたら異性とは遊ばないという人もいる。恋人に異性と遊ばないでほしいと思う人もいる。
私は異性愛者なので、私にとって恋人は、大切な友人であり、わかりあえるパートナーであり、男女として向き合いたい相手でもある。
でも、友情には性別は関係ないのに。なのに、節々で、超えられないような気持ちになってしまう。私にはそれが、切なく、悲しいのだ。
プチ整形した話
去年の春、私は二重整形をした。
きっかけは、友人の整形ツイートを見たことだった。ずっといつかしたいと思っていたけど、身近な友人の口コミを見ると、やろうと思えたのだった。
ちょうどコロナ禍で、対面で人に会う機会は少ない。マスクをしても目は見えるけど、二重埋没ならダウンタイムも比較的短めというし。
アプリでいくつかのクリニックを調べ、口コミを見て決めた。予約は簡単にできた。
当日はクリニックで看護師さんからカウンセリングを受けた。その後医師の診察があり、プランの説明があった。
どのプランにするか選べばすぐに施術を受けられる。
私はダウンタイムが短くなるよう細めの糸を選んだが、大きな支出もきつかったので2点留めにした。
施術は一瞬で終わった。麻酔をされる瞬間は怖かったがすぐ終わり、その場では痛みもなかった。
ただ帰り道には痛みが強くなってきたので、ロキソニンを飲んだ。その後2日くらいはそれなりに痛かった。
埋没では糸がとれてしまうこともあるらしく、その場合はいつでもやり直せる保証つきのプランにしたが、できればもう2度とやりたくない。
埋没でこれなら切開はどんなに大変なのか…気が遠くなる。
ただし得たものは大きかった。
物心ついた時から嫌いだった重たい一重瞼とおさらばできたのだ。
マツエクもアイプチもいらない。アイシャドウが楽しい。メイクが楽。すっぴんでいられる。
私にとってはコンプレックスでしかなかった一重瞼が、メイクしなくても二重でいられることはQOLもあがったし幸せだった。
自分の顔がちょっと好きになれた。
人生でやって良かったことナンバーワンである。(ちなみに2位は歯列矯正で3位は全身脱毛)
私は長い呪いから解放され、何もしない自分を受け入れられた。そのための整形からこんなにいいことはない。悩んでないで早くすればよかった。