Chikanism

現実と非現実のあいだ

「嫌われる勇気」を読みました

こんにちは!

巷で話題の「嫌われる勇気」読みました!

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

アドラー心理学に触れるのは初めてだったけど、心に響くところがたくさんありました。

 

哲人と青年の対話形式でアドラー心理学をわかりやすく解説している内容です。

しかし、青年、卑屈すぎだろー…がわたしの初めの感想。

あと最後の心変わりが早すぎるっ!

 

でもすごく為になる本だったので、自分用メモの意味合いを込めて以下にいくつか気に入ったところを引用させてもらいます。

引用はおそらくすべて哲人の台詞です。

 

あなたが変われないでいるのは、自らに対して「変わらない」という決心を下しているからなのです

 これは本当にそうで、明らかにそうしたほうがいいという状況についてアドバイスしても、聞く耳を持つ人と持たない人がいて、

やっぱり本人の意志次第だということがよくある。

「小さい頃からこうだった」というようなことも、その気になればちゃんと変えられるということ。

 

主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということです。自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。

 長所と短所は紙一重とはよく言うことです。

わたしは緻密に計画が立てられない大雑把なところがありますが、考えすぎないぶん行動に出るのが早いので行動力があるのが長所だと思っています。

 

AだからBできない」といっている人は、Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ、と言外に暗示しているのです

 

健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです

 最近は迷ったときとか困ったとき、「理想の自分」ならどうするかを考えて行動するようにしてる。

すこしでも理想に近づけてる(はず)。

→これは「自分の強みをつくる/はあちゅう(伊藤春香)」を読んで意識していること。

 

われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」のです

 例えば親は親の理想を押し付けようとしてくるけど、その通りに生きる人生は楽しくない。

楽しくない人生をわざわざ選ぶなんて、自分の人生が勿体ないよね。

 

われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです

およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏む込むことーあるいは自分の課題に土足で踏み込まれることーによって引き起こされます

 これは考えさせられた。

例えば誰かを好きになって、わたしがその人と付き合いたいと思ってアプローチしたとして、それに応えるかどうかは相手の問題。わたしにはどうしようもないこと。

わたしの課題はアプローチをするところまでで、相手がどう反応するかは相手の課題。嫌だったら嫌で仕方ないしそういう反応をしてくるはずで、そうしたら傷付けばいいだけ。

人は傷つくことを恐れすぎてるんだなぁと思った。

そしたらちょっと気楽になれた。

ちょっと違うかなぁ?

 

「自由とは、他者から嫌われることである」

 よくある話で、10人いたら自分が何をしても嫌ってくる人が1人はいて、2人は何をしても好きでいてくれて、7人はどちらでもないというやつ。

よく考えたら、わたしが何をしてもわたしのことを嫌いになる人と仲良くなる必要なんてないし、

その時間があったら自分のことを好いてくれる人と楽しい時間を過ごす方が有意義です。

 

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない

 

共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える、もっとも重要な指標なのです

 

自己への執着を他者への関心に切り替えていく

これってすごく大事。

コミュニケーションでもよくある話ですが、自分の話ばかりする人より聞上手な人の方がモテるといいます。

相手のことを知ろうとすることがコミュニケーションの一歩。好きな人のことはなんでも知りたいものです。 

 

「この人はわたしに何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人に何を与えられるのか?」を考えなければならない

これを読んだ時に思い出したことがあって、

「それでもあきらめない ハーバードが教えてくれたこと/林英恵」に書かれていたわたしの大好きなフレーズ

ギブ、ギブ、ギブ、アンドビー・ギブン

てのがありまして。

与えて与えて与えて、やっと与えられると。

何事も見返りを求めているとしんどくなってしまうものです。

 

われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です

人は感謝の言葉を聞いたとき、自らが他者に貢献できたことを知ります

「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」

 

「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。われわれは「なにが与えられているか」について、帰ることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については自分の力によって変えていくことができます

ブスに生まれたからって美人に生まれ変わることを願うよりも、ブスならブスなりに少しでもマシに見えるように努力しろってことですよね。

「ブスだし何しても意味ねーや」じゃなくて、「ブスだけど、努力しよう」が自己受容なのかなと。 

 

「神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ」ー ニーバーの祈り

これすごい響いた。

最後の、その違いを常に見分ける知恵。これ本当に欲しい。

 

裏切るか裏切らないかを決めるのは、あなたではありません。それは他者の課題です。あなたはただ「わたしがどうするか」だけを考えればいいのです。

たとえ裏切られたとしても信じていたい。

そう思える人のことを信じたいですね。

 

対人関係がうまくいかないのは、吃音のせいでも、赤面症のせいでもありません。ほんとうは自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部にだけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしているのです 

「普通であることの勇気」

普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。普通であることは、無能であることではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです

 

人生とは、連続する刹那なのです「いま」という刹那の連続です。われわれは「いま、ここ」にしか生きることができない

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです

 「いま」の積み重ねが未来になるし過去になるから、ないがしろにした「いま」の先に良い未来はないと思うんですよね。

それに未来がいつまで続くかなんてわかんないもん。

 

あなたが「10年前に知りたかった」と思っているということ。それはアドラーの思想が「いまのあなた」に響いているからこそ、そう思うのです。10年前のあなたがどう感じていたかは、誰にもわかりません。あなたはこの話を、いま聞くべきだったのです

 これもそうで、今のわたしに意味があると思う気づきとかも、もし明日だったり昨日だったり3年前だったりしたらその意味を見つけられてないかもしれない。

だから「いま」起こることすべてに意味があるんじゃないかと思うんです。

 

 

 

そんな感じでした。

他にもいろいろ興味深いことが書かれているので、ぜひ一度読んでみてください。

 

 

 

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