Chikanism

現実と非現実のあいだ

梅雨と小説と連休

梅雨が明けない。
私はBGMがあると集中できない。思考がそっちに持っていかれるからだと思う。でも他人の声やカフェの雑音やBGMは気にならない。

 

久々に小説を読んだ。島本理生の「わたしたちは銀のフォークと薬を手にして」というもの。小説は感情を揺さぶられる。
初めて読んだ島本理生さんの小説は「クローバー」だった。他人のために自分の人生を考えること、本当に誰かのことを大切にするのはどういうことなのか、を考えさせられた。

 

「わたしたちは銀のフォークと薬を手にして」は、恋愛小説だ。楽しいことばかりじゃない、それでも一緒にいたい。わたしたちは自由だけど自由じゃない。でも自分で選べるし、素直になれる。
わたしは知世が「(旅行や彼の趣味に)一緒に行きたい」とか「(彼の友人や離婚した妻に)会ってみたいな」と言ったり、「不安だ」と目の前で泣いてしまう素直さと真っ直ぐさが羨ましかった。考えすぎてしまうから。

 

二人でSLに乗りに行く旅行のところで、現実は小説のようにいかないけど、小説は現実じゃないから良いのだと思った。
「私はまだ一生を永遠のように錯覚している。だけど椎名さんに見えている景色は違うのだ」という箇所がある。そのとおりで、ほとんどの人は一生を永遠のように錯覚しているように思う。

今日と同じような明日が来て、明日と同じ明後日がくる。そう思ってないと平常心を保てないからかもしれない。

 

がんで若くして亡くなった知り合いのお嫁さんが、フェイスブックによく彼の写真を載せる。直近のものは結婚式の衣装合わせのもので、彼女は「○○くんは袴より(着てるの見たことないけど)、タキシードのほうが似合うと思う」とコメントしていて、あぁ彼女は本当に彼のことが好きなんだろうなぁ、と感じた。
予め予想できる死は、別れは、どのようなものなんだろうか。私にはまだ想像できない。

 

 

この小説の中では、多くの人が自分の意見と、周りの意見と、なんとなく押し付けられている「当たり前」をぶつからせながら、一緒に生きていこうとする。

自分と他人は違うから、いくら想像しても仕方ない。伝えたいことはきちんと伝えないと伝わらないし、言語以外の気持ちを読み取るのは難しい。

 

最近気づいたことがある。
私は今まで、「嫌われたらどうしよう」「こんなこと言ったらどう思われるかな」「嫌われるかもしれない」と思って、周囲の目線にビクビクしながら生きてきたように思う。
周りの人は気づかいができるね、とか、優しいね、とか、人当たりがいい、と言ってくれるけど、本当は嫌われるのが怖いだけ。

でもそれって、「この人は私がこういうことを言うだけで私のことを嫌いになる人かも」って信用してないってことなんじゃないかと気づいた。

 

違う人間だからこそ、わかりあうために、一緒にいるために、歩み寄ろうとしないといけないんだよね。

久々に小説を読んで心が潤った気がした。良い週末でした。