Chikanism

現実と非現実のあいだ

またね、の再現性

「またね」と言って別れたはずなのに、もう二度と会わないであろう人、会えないかもしれない人のことを考える。

小さい頃に仲良しだった友達とか、大好きだった塾の先生とか、かわいがっていた教え子たち、元恋人、留学先の友達、ルームメイト、趣味の友達。

 

塾の先生がいなかったら、薬学部にはいけなかった。教え子たちが先生って呼んでくれなかったら、わたしは「塾の先生」にはなれなかった。留学先で英語が話せないわたしに(本当は呆れていたかもしれないけれど)根気強く付き合ってくれた友人がいなかったら、カレッジは卒業できなかった。たまにゴハンに付き合って、どうでもいいことで笑いあってくれる友達がいなかったら、人生のいろんな場面を乗り越えてこれなかった。

でも、もう二度と会わないかもしれない。

 

「またね、日本で会おうね」と言って、バンクーバーで元ルームメイトと別れた。わたしは先に帰国し、彼女はまだ残りのワーホリ期間を満喫していた。彼女は大阪の出身で、本当なら帰国後に会えると思っていたけれど、彼女の帰国は思ったより遅かったし、わたしは東京に引っ越す。

 

小学校からの幼馴染3人で、毎年コナンの映画を見に行っていた。わたしたちはそれぞれ違う中学・高校・大学に進学したけれど、小学校卒業後も年に1度、5月頃に連絡を取り合って映画を観に行っていた。もう15年以上も。

長い時間が経った。こまめに近況報告をするわけでもないし、SNSでやりとりしているわけでもない。なのに、年に1度は会っていた。いつの間にかお酒が飲める歳になっていた。2人は京都に残っていて、わたしは京都を出る。

 

 

変わらずにはいられないんだなあと、友人たちが大学を卒業して、働きはじめて、予定を合わせるのがグッと難しくなって、そう思った。時間は流れるし、わたしたちは歳をとる。

いつまでも変わらないものなんてないって頭の中ではわかってるのに、なぜか変わらないままでいてくれるとどこかで信じている自分がいる。そうやって過ごしているうちに、もう手の届かないところにいってしまったりするのに。