Chikanism

現実と非現実のあいだ

味方なんてどこにもいないかもしれないと思った

ほんとはそんなことないって知ってるのに、誰もわたしの味方じゃないような気がして孤独感で涙が溢れた雨の午後。

異国の地だから?そうかもしれない。

こんな日がくることはちょっとは想像できていた。

1年とちょっと前の夏の日、どうしても海外に行きたいと思った。変わりたいと思ったし、勉強したいと思ったし、このまま卒業するなんてつまらないと思った。どうにか海外で勉強する方法を考えて、プランを練って、家族を説得して、色んな手続きをして、この地に立った。新しいことが始まる不安とワクワクが隣り合わせになったあの高揚感とともにバンクーバーに来たのは、たった2ヶ月前の話。

なにもかもがうまくいくわけないし、泣きたいほど辛い日だってあるだろうと予想はしていた。わたしは感情を表現するのが苦手だから、誰かに相談したことなんてほとんどなかったし、悔しいとか悲しいとかを他人に見せたこともなかったと思うけれど、24年の人生で悲しいことも辛いことも悔しいこともそれなりにあったし、苦労した日々も思い出せる。きっとあのときどきのような日はまた来るだろうと思ってた。

だからインタビューが上手くいかないことは予想の範疇ではあった。だけどコーディネーターの言葉には「わたしのこと何もわかってない、わかろうともしてないし、味方でもない」としか思えなかった。だって彼女はコーディネーターで、わたしの授業をもったこともないし、わたしが今まで何をしてきたかも知らない。

「あなたはインタビューをパスするのは難しいから、これ以上あなたの希望の業種を紹介できない」と言われた。インタビューに2社落ちただけなのに。1社目はわたしの英語のスキル不足だったかもしれない。けど2社目は完全にわたしの希望と相手の希望が違ったのだ。彼らはグラフィックデザイナーを求めていて、わたしはデザイナーじゃないのだから。けどコーディネーターは面接がどうだったかなんて聞かなかった。ただ「あなたにはインタビューをパスするスキルに問題がある」と言った(英語なので微妙にニュアンスは違うけど)。

「英語の勉強してないでしょ?ルームメイトは日本人?日本人とばかり出かけてるんでしょ」と言った。ルームメイトは日本人だし日本人と出かけてることも多いけれど、今よりも英語力が低かったわたしに入学許可を与えたのも学校だし、学校で求められる課題やプレゼンも全部ちゃんとこなしてきた。学校以外のところで最大限の努力をしてるかと言えば否、でも語学学校にもダブルスクールで通っているし、そんなこと言われたくなかった。

 

「ずいぶん話せるようになったね」「プレゼンよくできてたよ」そう言ってくれた先生たちの顔が頭をよぎった。ちょっとは上達したと思ったけどしてなかったのかな。「君は大丈夫だよ」という彼らのセリフは、上辺だけのものだったのかな。

 

味方なんていないのかもしれない。

 

誰もわたしのことを知らない街。すべてが新しいスタートで、その代わり今までのわたしのことは誰も知らない。今見せられるものがわたしのすべて。この場で話せなかったら「話せないヤツ」で、いまできなかったら「できないヤツ」。いつもは話せるとかいつもはできるとか、そのいつもを知ってる人がいないのだから通用しない。(それってただのスキル不足なんだけどね)

そして、家に帰っても愚痴る相手も、泣き言を聞いてくれる相手もいない。「ちょっと美味しいもの食べてもいいかなぁ」と言う相手もいないのだ。それがひとりでここに住むってことなんだ、と思った。

 

実際には友人の誕生日パーティーをして、「面接だめだった〜」と言えば「すぐまたチャンスが来るよ」と言ってくれる仲間がいて、「テキーラ飲んで酔ってる」って連絡したら「ヤケ酒か?気をつけて帰りなよ」って返事してくれる人がいて、「ちょっと泣いた」と言ったら「またがんばろ?」と言ってくれる人がいる。ツイッターに泣き言を呟けば「がんばってるんでしょ」とリプライをくれる友達が日本にもいる。

 

誰かが味方でいてくれる必要なんてなくて、わたしはひとりでも頑張れるし、頑張るしかない。だけど誰かが味方でいてくれるっていうのはとっても心強いものなんだとも思った。

だからわたしは諦めないし、負けたくないし、今ここでできることを全部やってやろうと思う。泣いたって日本にはまだ帰れない。回り道したって、間違った道だったとしたって、ぜんぶそれを正しかったって言えるようにわたしがする。どんな道も真剣に進めば正解になるって誰かが言ってたもん。

 

(いま、提案されたインターン先を受ける決意ができました。ここに行っていいのかな、ためになるのかなって思ったけど、それを正解にするのは自分だと思い出せたから)