Chikanism

現実と非現実のあいだ

この瞬間が永遠に続くか、そうでなければ人生が終わってしまえばいい

いまこの瞬間に死んでしまいたい、そう思ったことがある。大好きなバンドのライブの最中、一番好きな曲のイントロが流れてきた瞬間。

狭いライブハウスの真ん中前寄り、前の曲が終わって一瞬世界が暗くなる。赤や緑の照明がチラついて、興奮でファンが前に押し寄せた。噎せ返るような熱気と、ちょっと籠もった汗の匂い。

その真ん中で、ギターのイントロを聞きながら、間違いなくわたしは、この瞬間が永遠に続くか、そうでなければ人生が終わってしまえばいいと願っていた。

 

何度ライブに足を運んでも同じ現象が起きた。毎日同じことの繰り返しのつまらない高校生活の中で、ライブは単に癒やしとかではなく生きがいだった。会場は戦場でもあった。(ライブに行かなくなった今の生きがいってなんだろ、仕事かなあ)

他のバンギャル友達に聞いたことはないのでこう思っていたのがわたしだけなのかどうかわからないけど、少なくともわたしは毎回そう思っていた。

でも時間が止まるわけはなくて、終わらないで欲しいと思えば思うほどあっさり過ぎていくような気がした。

 

 

不思議なことに、バンギャルを卒業してK-POPアイドルにハマったときは、これほどではなく、時間が止まって欲しいと思うことはあっても死にたいと思うことはなかった。あれはのライブハウスの、妙な密室の中だったからかもしれない。メンバーにも近かったしファンとの一体感も生身で感じられて、あのときの興奮は確かに、アイドルのコンサートでは感じられない。

今となってはK-POPアイドルのファンも卒業してしまったが、まぁ人生においてあそこまでの興奮を感じることはほとんどない。仕事でドキドキすることやワクワクすること、いわゆる興奮することはあるものの、それはあのときのそれとはまた別のものだ。どちらかと言えば未来への興奮なので、今死ぬわけにはいかないという感覚に近い。

 

なんだったんだろう、あのときの感覚。もう二度と味わうことはないかもしれない。

時間の速さに追いつけない

さっきインスタを見たらバンクーバーにいた頃通ってた学校の同級生(日本人の女の子)が「この二年であなたの髭が伸びてわたしの髪も伸びたね、あれからもう二年なんて信じられないけどたくさん会えなくても幸せです愛してる」みたいなコメント付きでカナダ人の彼氏とのビデオ通話の写真を載せていた。

そういえばわたしが大学1年生くらいの頃は遠距離してる子たちはよくスカイプでビデオ通話していて、その画面をスクショしてSNSに載せるのが流行っていた(ような気がする)。

同級生とその彼氏は、バンクーバーでボランティアをしていて出会った。そのときは連絡先も交換せずに終わったが、それから半年くらいして学校のメンバーでテキーラショットを何杯も飲んだときにわたしが酔って彼女にTinderを教えたらなぜか再会したのだった。

わたしは友人の恋愛の話を聞くのが好きなのでよく聞くのだけど、聞くところによると彼女らは初デートでクリスマスマーケットに行って(ウォーターフロント駅のあたりでやっていたやつ。偶然わたしも好きだった人とその日行ったけど相手には日本に恋人がいたのでつまりそういうこと)、その日に付き合うことになったらしい。

まぁ付き合い始めてからもいろいろ問題があって、日本だと大声では話せないような内容も、わたしたちは日本語が通じない環境に甘えてカフェでよく喋り倒した。何が言いたいかというと、いろんな問題がありながらもこうして付き合い続けてるのはすごいなあと思ったし、時間が経つのが早くて驚いた。カナダで暮らしていたころからもう2年も経とうとしているのだ。

 

 

話は変わるがフェイスブックを開いたら高校の同級生の結婚報告があった。もはやフェイスブックは結婚報告をする場であると言っても過言ではない。わたしは中高大一貫だったので高校の同級生はほとんど大学の友だちでもあるのだけど、薬学部に進学した子は5人くらいしかいなかったのでほとんどが高校どまりの関係だ。

それ以来会っていないひとばかり。高校時代で時間が止まったままの友人たちの、突然の結婚報告を見ると嫌でも時間の流れを感じさせられる。

薬学部の友人たちはどちらかと言えば学生時代が長く卒業が遅かったこともあり結婚はまだな場合が多いけども、4年で卒業していればもう社会人も4年目。そろそろ結婚となってもおかしくない歳なんだろう。(わたしに至っては社会人1年目なのでまだまだって感じ)

ほぼ連絡もとっていない同級生の結婚報告にいいねを押しながら、見知った名前からのコメントを見る。この子も結婚していたんだっけ?とプロフィールを見に行くと、同様に結婚報告の投稿が写真付きで載っていた。やっぱりフェイスブックは結婚報告の場だ。もはや誰が既婚で未婚かわからない。

友人たちが人生で大きな決断をして、幸せな報告をしているのを見るのはわたしも嬉しい。卒業してからほとんど会っていないけど、みんな幸せに暮らしていてくれたらいいなと思う。

 

それにしてもそういう報告を聞くことはやはり時間の流れを意識せざるを得ない。自分もそういう歳なんだなあと実感する。わたしは歳をとるのがイヤで、現実逃避してばかりだ。もうちょっと歳をとることに対して肯定感を持てるようになりたいなあとか、そういうことを考えた。

キャラメルクレープと26歳

仲良しの女の子が5年くらい付き合っていた彼氏と別れた。彼女らは大学2年生の終わり頃に付き合い始めた。わたしはその1ヶ月くらいあとに初めての彼氏と付き合い始めたけど、彼女らはわたしたちが付き合っていた期間の2.5倍ほど付き合っていたことになる。

結婚するんだろうな、とわたしも、他の友人も、なんなら本人たちも思っていた。実際、彼氏のほうはプロポーズの予定も立てていたらしい。ただし卒業してからは遠距離だったので、結婚するとなればどちらかは仕事をやめて引っ越すことになる。

でも彼女は別れる選択をした。曰く、ずっと違和感を放置してきていたらしい。その場で喧嘩して、話し合っても最終的に改善されないところとか。5年という期間は長かったと思う。

 

 

それは6月くらいの話で、10月に会ったとき、わたしは「実は職場の人と付き合い始めた」と報告された。次ができたから別れたのかなとも思ったけど、彼女は彼女なりに前の彼氏と長く居続けるための努力をしていたのを知っていたので、幸せそうで良かったと思った。

クレープを食べながら彼女が写真を見せてくれて、思わずわたしは「○ちゃんの好みって、こういう感じじゃないよね?」と素直に聞いてしまった。彼女は笑って、「ぜんぜん違う。わたし、男の人のヒゲもタバコも絶対イヤって思ってたもん。でも、それでも好きだなって思えるからほんとに好きなのかもって」と言った。

 

確かにそうかもしれない。日常生活で、恋愛をする相手を条件で探しているわけじゃない。一緒にいて楽しくて、ずっと一緒にいたいと思えることが大事だよなあ。

彼女の一言に人生が詰まっている気がした。26歳秋。

あのときのデニーズ

バンクーバーにいた頃のインターン先の隣はデニーズだった。

京都ってデニーズがなくて、知ってはいるけど行ったことはなかった。カナダでも行こうかどうか悩みつつ結局行かなかったけれども。たまにco-workerがデニーズでお昼を買ってきて、ちょっとくれたりした。(わたしは一人でお店に入るのが得意でないので、こういうところはなかなか行けない)

 

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今の会社の隣のビルにデニーズが入っている。ランチは滅多に行かないけど、入社前に一回行った。就活していたころだ。今の会社の採用フローの1番はじめ、面談のときだ。

京都から夜行バスで東京に来た。朝は別の会社の一次面接のようなものがあった。その会社は青山あたりのビルの3階くらいにあって、エレベーターを出ると壁も床も真っ黒で、入り口に青いライトがいくつも設置されていた。ハッキリ言って怪しかった。そこで話をしてから今の会社の最寄りに移動した。

たまたま当時付き合っていた人もインターンの面接で東京に来ていたので、お昼を一緒に食べようということになった。そのとき入ったのがデニーズだった。

お昼時で混んでいて、そのあと面談の予定があったわたしは少し焦っていたけど、オムライスかなにかを頼んだ。食後にコーヒーがついていた。彼はブラックコーヒーが好きな人で、いつもわたしは彼の分のコーヒーフレッシュももらって、自分のコーヒーに2つ入れていた。

食べながらさっき行った怪しい会社の話をした。彼のインターンの面接の話も聞いた。次の面談があるので話もそこそこに40分ほどで店を出て、また駅で分かれた。帰りの夜行バスも一緒にとっていたのでまた後で、と言って。

 

 

結果的にそのときに面談した会社に入社することになり、内定をもらった日には「あのデニーズでお昼食べたときに行った会社だよ」などと話していた。彼とはその後すぐ別れたので、内定式で会社に来たときに、よりによって東京で唯一の思い出がある場所に通うことになったんだなと思った。

 

でもそれ以来デニーズには行ってない。会社からは近いけど、ランチタイムは混んでいるからというだけだけど。思えば街のなかにはいろんな思い出が散らばっている。

カナダのデニーズはアポストロフィがメープルの葉っぱになっていてかわいい。

普通という呪い

普通ってなんなわけ、そういう言葉に縛られたくないわ(関西弁)、なんて心の中で毒づくくせに、心の中では「普通になりたい」と渇望している自分がいる。それに気づくたびに普通ってなんだろう、と思う。でも普通になんてなれないんだろうな、とも。

 

この世に生を受けて26年、細かったことが一度もない。小学生の頃に好きだった男の子に「女子でも眉毛って繋がるんやな」と言われた。繋がってねえよ。中学生の頃に行き帰りが同じだった女の子に「ヒゲ剃ったほうがいいよ」と言われた。一方でわたしが化粧をしたり体毛を剃ったりすると、母親は過剰に怒った。「それ以上眉毛を剃ったらパソコン使わせへんで」などとなんの因果関係もない罰を言い渡され、わたしはますますこっそり化粧をするようになり、メイクがうまくいかない日は学校に行けず近鉄の駅で泣いたりしていた。

カースト上位層のグループに入ろうとするも遠回しの嫌がらせを受け、わたしはブスだしデブだしおもしろくもないし、勉強だけは(学内では)できて、上位層には入れないタイプなんだと悟った。あの子たちが話す芸能人やアイドルの話もわからなかったし、恋愛の浮いた話もなくて、漫画やアニメの話をしている方が楽しかった。後にビジュアル系にもハマったりして、ミクシィで世界の広さを知り、インターネットで趣味ブログやコミュニティを使って共通の話題のある人と関わっている方が楽しいことを知った。

今もネットで知り合った友達はたくさんいて、楽しいし大好きだし(ネットも友達も)、でもこれが世間一般で「当たり前」ではないこともちょっとわかる。

 

 

たぶんわたしの思う「ふつう」の女子は、そこそこかわいくて、スタイルも良くて、友達がたくさんいて、生活に困らない程度に稼いでいて、週末は家で映画を見たり友達とカフェに行ったりして、たまに恋人とデートして、みたいな子だ。きっとロングかセミロングでちょっと巻いた前髪と、パステルカラーのフレアスカートとかニットのワンピースとかが似合う。チークはピンクでリップもコーラルピンク。

これが世間一般の普通かどうかはわからないけど、たぶんわたしが渇望している普通で、でもたぶんなれない。

 

まぁもう26年生きたのである程度納得できる程度に顔を作る術も覚え、自分に似合う(と思われる)服も揃えて、さすがにメイクがうまくいかなくて仕事に行けないなんてことはない。

合う化粧品を探せるし似合う色も選べるしボディクリームを塗ったり脱毛をしたりジムに通ったり、「確からしい」努力を重ねられる(効果については言及しない)。褒められたらお世辞かなあと思いながらも「ありがとう」と言える。

きっと普通にはなれないけど、普通ってなんやねんと毒づきながら歳を重ねていくんだろう。あと7年くらいで十分な気もする。

自分の気持を伝えられるようになりたい

漫画はあまり読まない方だけど、珍しく定額制の漫画アプリをダウンロードしてみた。少女漫画みたいなのをいくつか読んだ。主人公が24〜30くらいのOLの。

やっぱり物語なのでストーリーがうまく進みすぎたりイベントが起こりすぎるところはあるんだけど、キャラクターの心情も描かれてるのですれ違う様子がすごくよくわかる。勝手に相手の気持を考えて、早とちりして、何も伝えずに一人で泣いて、みたいな。そういうのが積み重なって大きな問題になっていく。

でも日常もそうだよなあと思った。大事なことを言わずに、勝手に想像して、言いたいことは言わなくて、逆に思ってもないことを口にしてしまったりする。

たぶんあのときこう言えば良かったんだ、そうしたら違う未来だったかもしれない、ってことは人生で山のようにある。大親友とケンカしたとき、彼氏と別れたとき、他人に酷いことを言われたり言ってしまったりしたとき、好きだった人にキスされたとき。素直に感情表現して、言いたいことをお互いに言ってちゃんとわかりあえてたら揉めずにすんだとか、遠回りしなかったとか、誤解を生まずにすんだとか、悲しい思いをしなかったとか。

世の中の問題のほとんどは、他人にちゃんと考えや気持ちを伝えない・伝えられないことが原因のような気がした。

そうは言ってもわたしは意思表示も感情表現も苦手なので、日頃からちゃんと意識していかなきゃいけない。もう「あのときこう言ってたら」みたいな後悔したくない。

優しさについて

できるだけ誰かに優しくいたいと思うのは、わたしが誰かの優しさを受け取って生きているから。

 

自分が悲しい気持ちになったら、いつも、わたしは誰かに同じような気持ちを味あわせたくないなあってすごく思う。わたしは何気ない一言とか、たぶん悪気のない物言いとか、言い回しとか、そういう些細なことに悲しくなってしまうことがよくあって、だからこそ人一倍気をつけなきゃって思う。

普段話すときは意識しきれてなくて、たぶん誰かを傷つけてることがあると思う。だけど大事な人たちがたくさんいるし、傷つけたくない。

 

他人の気持ちなんてどんなに考えてもわからないから、どんなことに悲しくなるかなんてわからない。だからこそ想像力が大事だと思うし、思いやりって想像力なんだと思う。

 

 

この人を喜ばせたい!っていう気持ちもすごく素敵だし、もしも誰かがそう思ってくれたらたぶんとても嬉しい。だけどこの人を絶対に傷つけたくないっていう気持ちもすごく大事だと思う。

 

「アイデアの接着剤」という本に、転んだ相手のために絆創膏を準備するのは善意だけど、それよりももっと大事なのは相手が転ばないように万全の配慮をすることだっていう話があった。これが自主的な思いやりで、これがないと本当に相手を大事にできない。

誰でも彼でもに深い思いやりを持って接するのはなかなか難しいけど、わたしは相手が転ばないように配慮できる人でありたいなあ。もちろん絆創膏も持っていたい。

 

アイデアの接着剤 (朝日文庫)

アイデアの接着剤 (朝日文庫)