Chikanism

現実と非現実のあいだ

世間知らずと定規を使えない人の話

「アナタは知らないだろうけど、世の中には定規の使い方も知らない人間がいるんだよ。教えるとか教えないとかそういう問題じゃない。とにかく使えないんだ。」と、昔の恋人は言った。

彼がわたしを「アナタ」と呼ぶのはおどけて言うときなので、別にシリアスな展開ではなかったけれど、なんでこの話になったかは忘れてしまった。

 

彼の意味するところはつまりわたしの世間知らずさだ。彼が言うように、わたしは定規の使い方がわからない人に会ったことがない。

わたしは小学校から私立に通っていた。うちはお金持ちではないけれど、まわりにはお金持ちも多かった(※)。中高大は一貫なので取り巻く環境は変わらないけれど、小学校の同級生には東大とか京大に進学した人も多いし国立医学部に進学した人も多い。

というのも客観的に見れてはいないのかもしれないけれど、たぶんわたしはそれ以外の世界を知らないのだ。

彼とは大学で出会ったので学歴のレベルでは同じだろう。でも彼は高校までは公立で育ち、高校は工業高校だった。技術面ではよく出来る人で、その関連の学部に推薦で来た人だった。彼は駿台の存在を知らず、大学に入って友人の口から出た「スンダイ」と言う言葉をどこかの大学(東大、みたいな感じ)だと思ったらしい。

 

彼の言う通りだ。往々にしてわたしは彼に「世間知らず」だと言われることが多かったけれど、小中高大ずっと私立で育ったわたしには見えなかった世界がたくさんあるのだと思う。彼の意味する「世間知らず」には、たとえばわたしがテレビを見ないせいで芸能人や有名なテレビ番組を知らないことも含まれていたし、体重計はカーペットの上で使えないなど日常生活における知識も含まれていた。

公立の学校に通ったことがないから、何がどう違うのかは本当に全くわからない。彼がわたしに言いたかった「定規の使い方を知らないひと」の意味も、たぶんわかっていないのだろう。

 

 

郵便局に勤める友人が、「封もしない封筒を持ってきて、手紙の出し方をイチから聞いてくる人がいる」と言っていた。若者から老人まで。中には就活中の学生もいるらしい。封筒のどこに宛名を書くか知らない人もいるらしい。

わたしにとって、少なくとも彼女にとっても「当たり前」のことだ。封筒の表と裏は聞くまでもないし、宛名を書く場所もわかる。自分の住所も普通は書く。それを知らない人もいる。

 

きっと、「定規の使い方を知らないひと」の存在も、同じなんだと思う。わたしにとっての当たり前が、誰かにとって当たり前とは限らない。それは価値観とか考え方の違いの話だけじゃなくて、生活レベルとかでも変わってくるものなんだろう。

 

わたしはカトリックの小学校に通っていた。朝の会と帰りの会、昼食の前後には必ずお祈りがあった。中庭にはマリア像があった。中高大は無宗教だったのだけれど、中学に入るまでは「お祈りをしない学校は、どうやって朝を始めて、どうやって帰りの会を閉めるのか」が想像もできなかった。小学校から制服だったので、「私服で学校に通う」感覚もわからなかった。

 

郵便局の話だって、手紙の出し方を知らない人が毎日来るということは、そういう人が一定数いるということだ。

 

わたしたちは気づかない。同じ生活水準、同じ知識レベルの人と接する機会の方が圧倒的に多いから。定規の使い方なんてイチイチ尋ねないし、手紙の出し方について議論することもない。1020円を2人で割り勘するときの暗算に秒もかからないことを確認し合うこともない。

 

自分と同じような生活水準の人たちと接しているから、他のレベルの人の存在に気づかずにいる。正確には「いるだろう」とは思っていても、具体的にそれがどういうことなのかわからない。

と言ってる今もよくわかっていない。自分の「当たり前」が当たり前じゃない人もたくさんいるのだ。当たり前だけど。

 

 

※「お金持ち」のお金持ちレベルも、わたしの認識と他の人の認識ではまた違うんだろう