Chikanism

現実と非現実のあいだ

「幸せになる勇気」を読みました

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

以前に紹介した「嫌われる勇気」の続編です。

嫌われる勇気を読んだ感想はこちら↓

 

chikanism.hatenablog.com

 

話は「嫌われる勇気」でアドラーの教えを知った青年が3年後に再び哲人の元を訪ねるところから始まる。

まぁ予想どおりというか相変わらずというか、青年が卑屈すぎる。

アドラーの教えは間違っている、と言って来たのだが、そこまで怒り狂って突っかかってこなくても良いのでは?と思わざるを得ない。

 

それはさておき、気になったところをいくつか紹介する。

 

「これからどうするか」

「かわいそうなわたし」「悪いあの人」「これからどうするか」がそれぞれ1面に書かれた三角柱を相談者に渡し、「どの話でも構わないのでこれから話す内容を正面にして見せてください」というと多くの人が「これからどうするか」を選ぶという。

しかし何も渡さずに話し始めると、「かわいそうなわたし」か「悪いあの人」の話をする人が多いらしい。

でもそれって解決にならない。

 

哲人 いいですか、「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。

あなたの個性とは、相対的なものではなく、絶対的なものなのですから。

 

「人と違うこと」を個性だと思うと、承認欲求ばかりが大きくなる。

人と違っても違わなくても自分は自分であるということ。

 

新約聖書の「ルカによる福音書」のなかでは、「汝の隣人を、汝みずからの如くに愛せよ」と語られています。

自分を愛することができなければ、他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ、他者を信じることもできない。

 

これは恋愛でもよく言う気がする。自分を好きになれない人が誰かを好きにはなれないと。

 

マザー・テレサは「世界平和のために、われわれはなにをすべきですか?」と問われ、こう答えました。「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」。アドラーの共同体感覚も同じです。世界平和のためになにかをするのではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の、小さな積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくのです。

 

いきなり世界平和のためにできることなんてない。

まずは近くのことから。近くのひとを大事にできないのに遠くの人を大事にできるわけないね。

 

「求めよ、さらば与えられん」という言葉はご存知ですか?

アドラーならきっと、こんなふうに言うでしょう。

与えよ、さらば与えられん」と。 

 

これは「嫌われる勇気」にもあった。他人が何を与えてくれるかではなく、他人になにを与えられるかが重要だと。

give, give, give, and be givenというやつ。

 

愛の関係とは、なにを追求した結果、成立するのでしょうか?

利己的に「わたしの幸せ」を求めるのではなく、利他的に「あなたの幸せ」を願うのでもなく、不可分なる「わたしたちの幸せ」を築きあげること。それが愛なのです。

「人生の主語」が変わるのです。

 

これって素晴らしいことですね。ふたりで幸せになろうと。

プロポーズなんかも、「幸せにする」じゃなくて「一緒にしあわせになろう」がいいと思う。だって一緒に幸せになろうと言ってくれる人がいたら、本当に幸せになれそうでしょ、ふたりで。

 

アドラーは「運命の人」をいっさい認めません。

もちろん、誰かとの出会いに「運命」を感じ、その直感に従って結婚を決意した、という人は多いでしょう。しかしそれは、あらかじめ定められた運命だったのではなく、「運命だと信じること」を決意しただけなのです。

 

わたしはよく「運命」という言葉を使うけど、それも降ってきた運命だと思ってるわけじゃなくて「運命だな」って思うことを選んでるだけ。

そのほうがロマンチックだし、素敵だから。

運命に任せてるわけじゃない。自分の人生だから。

 

パートナーと一緒に歩んできた長い年月を振り返ったとき、そこに「運命的ななにか」を感じることはあるでしょう。その場合の運命とは、あらかじめ定められていたものではない。偶然に降ってきたものでもない。ふたりの努力で築き上げてきたものであるはずです。

運命とは、自らの手でつくり上げるものなのです。

われわれは運命の下僕になってはいけない。運命の主人であらねばならない。運命の人を求めるのではなく、運命といえるだけの関係を築き上げるのです。

 

 

つまり愛する勇気、すなわち幸せになる勇気が必要ということでした。

前作と一緒で青年は最後は結構あっさり納得して帰って行った。

 

最後の方はずっと愛について語っているのけど、わかる部分が多い。

本当に好きな人がいたら「運命だ」って信じ(ることを選び)たいし、ふたりで幸せになりたい。というかふたりで一緒に幸せになれるって思える相手を選ぶと思う。

それで、振り返って「運命だったな」と感じられる関係を築きたい。

 

愛されるより愛するほうが難しい。

見返りを求めることは愛じゃないんだ、たぶん。

愛されるのは受け身だけど、愛するのは自分だからかな。厳密にいうと、愛すると決めるのは、ということかな。

 

なるほどーと思う点は多いし参考になる考え方もいっぱいあるけど、アドラーの教えを完全に理解するのは無理だし全部実践するのも難しいと思う。

でも知ってると知ってないとではふとしたときに考え方とかに違いがありそう。

興味深いので、ぜひ読んでみてください。

 

 

他にもこんな本読みました。↓

 

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