Chikanism

現実と非現実のあいだ

人生初と同じくらい人生最後を意識する

少し前に、人生で初めてのことがたくさんあって楽しい、というようなことを書いた。↓

chikanism.hatenablog.com

 

そして同時に、人生最後のなにか、も日々通り過ぎていっているかもしれない。

もう一生会わないかもしれないとか、そういうことも書いた。↓

chikanism.hatenablog.com

 

 

もうすぐ研究室生活が終わるので、この実験はもう最後だろうとか、マウスの世話をするのも最後だろうとか、論文読むのも最後だろう、月間報告をするのも最後だろう、なんて意識しながら過ごしている。

研究室を出たら、もうピペットマンを握ることもないだろうし、マウスを触ることも頚椎脱臼することもないだろうし、生物系の英語論文を読むこともないだろう。

 

高校を卒業するときはもう制服は人生最後だなと思ったし、ハタチの誕生日の前日は十代はもう最後なんだなと思ったし、同じように大学を卒業する時が来るし23歳が終わる日も30歳が終わる日も来るだろう。

でも、意識せずに過ぎていく「最後」も山のようにある。

 

大好きだったバンドのライブ。嫌いになったわけではないけど、いつの間にか2年前に行ったのが最後になっていた。もう行かないかもしれない。

はたまた、またライブに行こうと思っていたバンドのボーカルが亡くなって、そのつもりはなかったけれど最後になってしまったこともある。(元蜉蝣の大佑だ)

半年前、祖父は不審な腰痛を感じ入院した。しかし入院中に腰痛の原因とは関係ない脳梗塞を起こして容態が悪化した。また行けると思っていた家族旅行は、そのつもりではなかったのに1年前のものが最後になった。

 

 

人生最期の日だと思って生きろ、というような言葉がある。

同じように、人生最期になる物事も何気なくわたしたちの元から去っていくものだ。

昨日まで当たり前だったことが、ついさっきまでそばにあったものが、その次の瞬間、その次の日、その次の年まで当たり前にそばにあるとは限らない。

当たり前に感謝しろ、と言うのは簡単だ。

ただそれだけじゃなくて、もしかしたら最後になるかもしれない、何事もその可能性を秘めていると意識しながら過ごすだけで、見える景色が変わってくるようにも思う。